［朝は30分のランニングから始まる。
　まだ暗い空の下、静かな住宅街には
　規則正しく地面を蹴る音と
　自身の呼吸音だけが微かに響く。

　今や何の為の体力作りであったか
　目的を見失いつつあるが……、
　センセイの言いつけは、守らないと。

　息は少しも上がらぬまま
　決まったコースを走り切れば
　プロテイン入りのスムージーを飲み
　然程かいていない汗をシャワーで流して
　今日もグランドピアノの前に座る。

　最初は、練習曲から────……］
　

　　
　　────……
　　

　
［六時間ほど経った頃。
　弾き終わりに一人分の拍手が聴こえて
　顔を上げた。］


　　「今日も完璧な演奏ですね」

　　……ありがとう、田中さん


［使用人の田中さんに短く答えるけれど、
　自分は完璧というのが褒め言葉なのか
　解らなくなっていた。］
　

　
［一度聴けばどんなに難しい曲でも
　そのまま正確に再現することが出来た。

　……、逆に言えば自分には他人の演奏を
　模倣することしか出来なかった。

　センセイはそれで良いと言ってくれていたのに
　自分の演奏を動画で公開して
　沢山の人に聴いてもらえるようになると
　「人間味が感じられない」
　「ロボットでは」等と指摘されることがあった。

　それはもしかしたら、演奏についてだけ
　言われている訳じゃないのかも知れないけれど。］
　

　
［田中さんは、けど、と続ける。］


　　「最近の演奏は何だかそれだけじゃないと言うか……。
　　　ご自身の雰囲気も少し変わられた気がしますね」

　　　……そうかな？

　　「ふふっ、なにかいいことでもありました？
　　　朝の日課と動画の撮影以外でも
　　　お出掛けされるようになりましたもんね」


［坊ちゃんにもついに春が、なんて微笑む
　彼女の目元には細かい皺が幾本もあった。

　変化は自分でも気づかなかったくらい些細なもので。
　物心つく前から身の回りの世話をしてくれている
　彼女にわかってしまうのは仕方ないにしても
　画面越しに気づくひとは……、まさか居ないだろうが。］
　

　
［いいことあったかの問いに
　否定も肯定もせず曖昧に頷いて。］


　　　昼食に呼びに来てくれたんですね？
　　　リビング行きますよ

　　「ああ、はい、そうでした
　　　お昼はイタリアンにしましたけれど
　　　ハピバーガーが良かったかしらね？」

　　　……田中さん動画観てるんですか？


［揶揄う口調に思わず訊ねてしまってから、
　観られていても可笑しくなかったと思い直す。

　自分に配信者になることを勧めてくれて
　本名を元にHNを考えてくれたり
　三日月Tubeのアカウントを作ってくれたりした上に
　必要な機材と配信スタッフの手配まで
　行ってくれたのは彼女なのだから。］
　

　
［だけど気恥ずかしさは別の話だ。

　初めは曲のリクエストを受けてただ弾いていたが
　視聴者からはピアノに関係ない
　リクエストや質問も飛んでくる。

　本名や家族に関する情報は伏せているものの
　それ以外は晒すことや試すことへの抵抗は低い。
　話題のゲームをプレイしてみたり
　ロケで下手くそな食レポをしてみたり……。

　淡白な己のリアクションの何が良いのかは
　まるでわからないのだが
　マイナー曲にもファンがいるように
　こんな自分にも需要はあるということ……、なのかな。］
　

　
［需要はさておき田中さんのハンバーガーとは、
　生まれて初めてファーストフードを食べたときの
　動画を観て引き合いに出したに違いない。

　作法を心得ておらず。
　行儀良くテーブル席に着いて長らくそのままでいたら
　撮影スタッフが「静止画？」などと言って
　笑いを堪えきれなくなっていて。

　だって席にオーダーを取りに来てくれない
　なんて知らない……。
　あの時ばかりは表情の乏しい自分も
　慌てたし羞恥に顔を赤くしていた。
　大の大人、それも自動販売機くらいおおきなやつが
　そんな情けない姿を晒してみっともなかったと思う。

　それでも企画を没にしなかったのは
　リクエストしてくれた人をがっかりさせたくなかったし
　てりやきハッピーバーガーとピーチスムージーが
　驚くほど美味しかったからだ。
　……美味しかったな。］
　

　

　　　確かに毎日でも食べたいって
　　　言いましたけど……
　　　俺田中さんのイタリアンも
　　　気に入ってますから

　　　
［つけられたコメントで知ったが
　ハッピーバーガーはファーストフードの中では
　それなりのお値段がする店らしい。
　同じ店にも別の店にも行ってみたいけれど
　田中さんに伝えたことだって決して嘘じゃなかった。］
　

　　・
　　・
　　・

　
［すっかり日が沈んで。］


　　「いつものように冷蔵庫に
　　　作り置きしておきましたから。
　　　じゃあまた月曜日に」

　　　いつもありがとう田中さん
　　　良い週末を


［小さな白髪頭を見送ってから配信の準備に取り掛かる。
　ロケでは撮影スタッフを伴うこともあるが
　自宅での撮影は自分で機材をセッティングし、
　サポートのスタッフにはリモートで参加して貰う。
　機械は音痴だけれど何年も扱っていれば慣れたものだ。

　金曜の夜は週に一度の生配信の日。］
　

　
［そういえば先日、自分のチャンネルの登録者が
　10万人？　を超えたらしい。

　SNSのメンションが矢鱈来ると思ったら
　そういうことだった。

　達成してからの生配信は初だから
　何か特別なものを用意するべきだったか……、
　なんて考えても今更どうにもならない。

　変更できるのは冒頭で弾く曲くらいのもの。
　長い睫毛を伏せて考える。］
　

　
［間も無く訪れた配信の時刻。
　"暁ソウマ"チャンネルの予約枠が稼働する。
　長い指が鍵盤の上を滑らかに動きだす。
　音の波を電気信号へと変えて
　世界中にピアノの音色が届く。

　────パッヘルベルのカノン。

　3つのヴァイオリンと通奏低音のための
　カノンとジーグから特に有名な前半部分。
　特にお祝いのために作られた曲ではないけれど
　聴き心地のよさからか
　祝い事で使われることも多くて、それに……。

　弾き終えたなら、コメントの読み上げをしようか。*］
　

　

　　今日も大勢聴いてくれて……
　　お祝いのコメントがこんなに

　　ありがとう


［演奏している間は画面を見ないから
　ノートPCに表示されているコメント欄を
　スクロールで遡って確認する。

　矢張りお祝いのメッセージが多かった。

　耳からの情報、音声以外の覚えが悪い自分でも
　何度もコメントしてくれる人のことは
　何となくだが覚えていた。］
　

　
［メッセージを幾つか拾い上げていく。

　投げ銭つきのものを優先するのが礼儀だとか……。
　（当初全スルーしていたらスタッフに叱られた）

　今日はご祝儀なのか
　投げ銭つきだけでもかなり多かった。］


　　『10万人達成した時何してたの？』
　　寝てた。起きたらメンションが
　　沢山届いててびっくりした

　　『お祝いのスムージー代』
　　何百杯ぶんだ……？
　　無理はしないで。ご馳走様です

　　『ハート作って見せて』
　　えっと、これであってる？

　

　

　『あらためましておめでとうございます！
　　ソウマくんが弾いてくれるカノンが
　　世界でいちばん大好きです』

　　それは光栄です


［なるべく漏れがないよう
　見覚えのある人もない人も平等に淡々と
　コメントを読み上げていった。
　流石に通常コメントまでは手が回らなかったが。］
　

　

　　投げ銭がこんなに

　　通常コメントも全部を読み上げるのは
　　無理だけど目を通してはいる

　　みんなありがとう
　　これからも頑張ります

　　それで次に弾く曲は──……


［深々と礼をすると、あっさり次の演奏に移っていく。
　『折角の記念なのにそれだけ？！』なんて
　コメントが即座についたりするけれど
　自分はもうグランドピアノに────、

　次の曲と、向きあっていた。］
　

　
［……センセイはとても厳しい人だった。

　自分がピアノを弾く時はいつも
　センセイの示したお手本の旋律だけが
　頭の中に流れていた。

　センセイの表現を正確に完璧に
　なぞって音を出す楽器が己で、
　曲の背景など考えなくて良いと教えられた。

　だけど……、］
　

　
［────ショパンのピアノ協奏曲第2番第2楽章。

　鍵盤の上を大きな手指が軽やかに踊る。］


　　……、……


［若きショパンがした初恋の
　夢のようなときめきと切なさが
　高音の旋律で奏でられる曲だ。

　ねえ、二百年近く前にこれを作った貴方も
　　　　　　　　こんな想いをしていたの……？］
　

　
［センセイの旋律は暫し追いやって

　もうずっと気になっている
　ひとりの人のことを
　頭に思い浮かべながら……、弾きあげた。

　そうやってする演奏は、なんて気持ちが良い。］
　

　

　　……ふぅ。
　　次は何かリクエストなどあれば────


［そんな少しの特別と少しの変化と共に
　金曜の夜は更けていった。*］
　

　
［その日の深夜、
　暁ソウマチャンネルの生配信が終わってから暫く。

　SNSの『ハツナ@Aurora_kanon』アカウント宛に
　一通のDMが届く。

　送り主のアカウントは
　作られてから数ヶ月経過しているにも関わらず
　アイコンはデフォルトのタマゴシルエット
　フォロー/フォロワーがともにゼロという
　見るからに怪しいアカウントだ。

　フォローしている人のみが内容を見られる
　所謂鍵付きアカウントであるため
　投稿内容やお気に入り登録の状況は確認できない。

　表向き使われているように見えないのに
　相互フォロー外にDM送付できるよう
　わざわざ課金をしているらしい。

　DMの内容は次の通り。**］
　

　
　　──────────────────
　　

　　突然のご連絡失礼致します。
　　暁ソウマです。

　　普段のアカウント（）は
　　スタッフも見るため別のアカウントから
　　送信させていただいています。

　　いつも温かいメッセージを
　　ありがとうございます。
　　励みになっています。

　　もしハツナさんさえよろしければ
　　お食事に誘わせていただきたいです。

＜　お返事を頂けると幸甚に存じます。
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