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【人】 住職 チグサ[いったいどればかりの時間がたったのでしょうか。 私は、仏様の頭を膝に抱え、手を合わせ、お経を唱えながら、己の精神世界に没頭していました。 外界からの刺激は遮断され、私と仏様の二人だけがそこにありました。体を膨らませるようにしてお経を唱え、極限まで集中を高めた時、しばしば陥る感覚です。 といっても、体は酷く消耗していましたから、実のところは朦朧としていたのかもしれません。 集中を解き、外に再び意識を向けたのは、何者かによって、故人の肩が揺さぶられたからです。 その方もまた、月明かりに照らされてなお赤い布で口元を隠していました。 呪布とは対照的に顔色は酷く青ざめていて、我が膝で眠る方に必死に呼びかけておられます。 私は、故人を揺さぶるその手に、皺がれた手を重ねて、静かに首を振りました。] (28) 2022/11/15(Tue) 21:47:31 |
【人】 住職 チグサ[南の空に、ぽっかりと月が浮いていました。 やがて彼は、しゃくりあげながらもぽつりぽつりと、何があったのか話してくださいました。 彼と親しかったこと。この計画で知り合って、話すうちに同郷だと知ったこと。 全てを賭けた結果、リーダーがどうなってしまったのかも。] そうですか…… [彼はごく近くで、首魁の夢が破れる様を見ていた様子でした。 一体何があったのか、誰にも追いつけぬ速さで駆け抜けていた首魁が、 命からがら逃げだして、走り迷ううちにここへたどり着いたこと。 加担した私に、何を言う権利もありません。 ただ、憐れでした。] (29) 2022/11/15(Tue) 21:48:08 |
【人】 住職 チグサ……それで、あなたはどうされるのですか? [詳しい話を伺いたくはありましたが、いつまでもここでこうしてはいられません。 私だけならば、ここで果ててもいいという、半ば自棄のような気持でした。 しかし今、また一つの命を見て、心に責任感が灯りました。] 逃げるならば、死角を縫って港へ行かなければ。 裁きを受けるにしても、私刑ではなく、司法によってでしょう。 いずれにしても、私のいる寺院に身を寄せられませんか。 ここに長くとどまっていたら、誰かにいたぶられるのも時間の問題です。 [通りの方からは、相変わらず欲の狂騒が聞こえています。 今まで誰にも襲われずに済んだのは、純粋に運が良かったからでしょう。 とはいえ、私の足はすっかり萎えていました。膝枕のせいなのか、負傷のためか、それすら分かりません。 案内をしながら、あべこべに彼に運んでいただくような形で、なんとか寺院に戻ってまいりました。 そこで目にした光景は──]** (30) 2022/11/15(Tue) 21:48:49 |
【人】 住職 チグサ[寺院にたどり着くよりも早く、きな臭い香りが鼻を突きました。 いつでも見守ってくださったご本尊様。 幼少期から繰り返し体に刻み込んだ経典。 我が子と定めて育て上げた、傲慢になってもなお可愛いお弟子さん達。 それらいっさいが炎に包まれ、赤い舌先で夜空を舐めています。 周囲の木々は熱風に煽られ、表や裏を見せながら木の葉が散ってゆきます。 逃げ惑う人々の中に在って、唯一静かな目でその惨状を見つめておられる方が在りました。 それは、思いもよらぬ方でした。] あなたがやったのですか──何故? [欲に狂った街を見た後で、なんという愚問でしょうか。 彼は内側にどのような欲を飼っていたのでしょう。一体どのような衝動の果てに、寺院を燃やすという行動をなさったのでしょう。 お医者様の傍に、あの愛らしい助手の女性もいらしたでしょうか。 そうだとしても、ぱちぱちと爆ぜる音に微動だにせず、またいとし子の宿るはずの腹部は赤く濡れそぼっていて、狂ってしまわれたのはむしろ幸いという有様でした。] (74) 2022/11/17(Thu) 22:37:10 |
【人】 住職 チグサ[のろしが、雨を呼んだかのようでした。 視界が霧に包まれ、しとしとと雨が降り注ぎます。 その雨には、欲を雪ぐ力がありました。 しかし、火の勢いを止めるにはあまりにも頼りないのでした。 赤い炎は霧雨に阻まれ、その境界を曖昧なものにしていました。 ぱち、ぱちん、と。火の粉が爆ぜて、私の頬を炙ります。 私が命を燃やして守り、築き、育て上げた、掛け替えのない執着の塊。 放下着。それらは全て捨て去られ、煙となってしまいました。 本来であれば、私が自身の手によって捨て去らねばならなかった。けれどその修行も果たさぬままに、彼が成してしまいました。 もはや、その存在は、私の胸の中だけ。] (75) 2022/11/17(Thu) 22:37:51 |
【人】 住職 チグサ[そう。お弟子さんとの時間は、見守ってくださったご本尊様は、生きる智慧を授けてくださった経典は、未だに消え去っていません。私の胸の中に刻まれています。 私の自我が在る限り、それらは存在し続けるのです。 私はノーヴァ様の手首を掴み──爪が食い込むほどに強く、掴み。 玻璃のように澄み渡った、何物にも焦点を当てない瞳に、老いさらばえた我が瞳を合わせ。 あなたはそれでいいのですか、と暗に問いかけたのでした。] 、、、、、、、、、、、、 まだ、私が残っていますよ。 [と。] (76) 2022/11/17(Thu) 22:38:47 |
【人】 住職 チグサ[ここで果てるならば、彼の手にかかりましょう。 災難に逢う時には災難に逢えばいい。 死ぬときには死ぬのが良い。 それこそが災難を逃れる妙法といえましょう。 けれど、彼が迷いの果てにこの寺院を頼ってくださったならば。 救ってくれる神もなく、見守ってくれる御仏もなくとも、僧侶は確かに在ります。 ならば、迷い足掻く方に耳を傾けるのは、僧侶の務め。 私は彼に丁寧に合掌すると、その場で座禅を組みました。 ただ、しとしとと降り注ぐ小雨のように。 彼の話に静かに耳を傾けるため。 あるいは彼に毀されるため。]** (77) 2022/11/17(Thu) 22:40:21 |
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