［“神宮”を映していた瞳が、俺を見る。>>70
　まだ御行が抜けてないんだろう、どこか虚ろだ。
　リテイク、という意外な言葉に瞬く。］



　　っ、ぁー……

　　そういえば。なかった、な。


［台本には、確かにその台詞は。
　絡みのある共演者の台詞も頭に入れてあるのに、
　涼が啓に告げるには流れが自然で、気づかなかった。
　直向きな涼なら、そうだろう。という納得。］



　　ん。役と台詞入れんの、結構得意だから。



［普通の顔して呟きながらも。
　……首筋に両腕を絡めて、甘えてキスを強請りたい。
　そんな衝動を、堪えた。
　これは神宮涼じゃない、単純に飛鳥悠凛としての欲求だ。］

［今のが無事OKテイクになったらしく。
　このシーンが丁度最後のカットだったから、
　『飛鳥さん七川さんオールアップ、
　以上でクランクアップです！』と監督の宣言に続いて、
　助監督が『お疲れ様でしたー！』と場を締める声が響く。］



　　お疲れ様でーす！　



［声を張って、周囲を見渡す。
　スタッフさんが待ち構えていたように、
　主演２人に恒例の花束を渡してくれる。
　連続ドラマでもないのに有り難いことだと笑顔で受け取り、
　口々に労ってくれる監督達と挨拶を交わす。

　大学構内や、高校でのエキストラ入りのロケも挟んだから、
　１話60分のドラマ撮影にしては２週間と長丁場になった。
　一体感のある良い撮影チームだったと思う。］

［それぞれ人に囲まれていたから、
　少し距離の離れた惺に呼びかけ、
　ちょいちょいと指先で招き寄せる。］


　　惺、惺。
　
　　記念撮影。SNSに載っけるやつ。


［自分のスマホをスタッフさんに渡して、お願いする。
　花束片手に隣に立って、ぐっと惺の肩を抱き寄せ、
　身を屈めさせて顔を近づける。
　神宮の格好をしたままでキメる、とっておきの
　アイドルスマイル。

　私用LINEの返信はまめじゃないけど、ユーリとしては
　公式インスタの投稿は定期的にやっている。　
　それでなけなしのまめさを使い切っているともいえる。］

［次の仕事が入ってたから、断りを入れて
　先に楽屋に引き上げた。
　ユニット内で担当回してるラジオの収録だから、
　ヘアマスカラを落として地毛に戻さずともいいだろうと、
　手早く着替えとメイク落としだけを済ませる事にする。

　スマホの通知をチェックすると、遠縁の親戚から
　ちょっとしたお願い事の快諾の返事が来ていた。
　旧家の当主で、今は芸事の家元をやっている。
　大守学園の理事長副理事長とは同級生で、
　今も懇意にしてるはずだと記憶にあったから、
　連絡をとってみた甲斐があった。

　お願いするの、天刻さんと迷ったんだけど。
　“大守系列の従業員”の方は、系列企業が多すぎて
　どこまでか見当もつかなかったのと。
　先輩への頼み事にしては度が過ぎてるんじゃないかと
　躊躇いがあったから、良かった。


　うん、とひとつ大きく頷き、鏡に向き直ると、
　そこに浮かぶ笑みを見つけた。*］

[舞踏でも、色々なお役になりきるものではあるけれど。

それは、藤の花の精が娘の姿をとって恋心を踊るものだったり、裏切られた女の恨みが蛇の化生となるものだったり。

人でないものを演じることも多々あるし、舞台上では"そうあるもの"と演ずるけれど、それを引きずることはまずなくて。幕が下りると同時、"月嶺澄翔"に戻っているのが常だった。

けれど今回、撮影が終わっても尚、己の中に篝が居て。
鈴の音に、鳥の声に、風の中に、時々、彼らの気配を思い出す日が続いている。

それも今日のインタビューで一区切りすることになるんだろうか。

オンエアされることで、またこの、２人が近くに在るような感覚が蘇ることになるのかなと、僕はそれも楽しみに感じていた。]
　

　………………。

[僕は圭吾さんを"風"のような人だと思った。
圭吾さんに言わせれば、僕の印象は"水"らしく。
過分な褒め言葉だと照れくさくなってしまったのは、お互い様だったのかもしれない。

気の利いたことがなかなか言えない僕は、
「風と水。今回のドラマの舞台にも重なる、美しいイメージですね」
というライターさんの声に、光栄なことですと微笑むくらいしかできなかったけれど。

視聴者へのコメントを求められれば、いよいよドラマ放映も現実的なものに感じられる。

日本舞踏を広い層に知って貰いたいとか色々な思いはあれど、観た人たちの心の心に何かが残れば良いと、今はそれを一番に思うようになっていた。]
　

　お昼……、そうですね、何か食べてから……。

[出版社を辞し、１階受付の上に掲げられた時計を見やり。
時間的にも何かお腹に入れてから実家に向かうで大丈夫そうですねと頷いた。

衣服は整っているしこのままで大丈夫ですかと、"敵地"に敵方の和服で赴くことになる圭吾さんに視線を向ける。
和服を纏う僕らプロの目から見ても（勿論贔屓目も抜きにして）、圭吾さんの和服姿は全く"着させられている"風なところはなく。

むしろ堂々、お祖父様に対峙するのに過不足ない装いのように思われた。

そして圭吾さんの部屋に暮らすと決めた一昨日から、圭吾さんは何かにつけ、「何を食べたい？」などと僕に尋ねてくるようになっていて。
それは自分では食べたいものもしたいことも決められない環境にいた、僕への訓練のようなものかなと思っている。

言葉に詰まれば、これとこれならどちらが良い？みたいな聞き方をしてくれるのもよくあることで。]
　

　ハンバーガー食べてみたいです……、
　と言いたいところですが、
　この出で立ちでは目立ちますね、きっと。

[出版社の入口で、社員か来社の客人か、遠巻きの黄色い声が聞こえてきたのはほんの数分前のことだ。

「東堂圭吾……？ぇ、かっこいい、撮影？」「ほらぁ、あの深夜ドラマ……！」なんていう声が微かに耳に入って。
僕に関するものと言えば、「なんだっけ隣の人……、ほら共演の？」程度止まりだったけれど。

結局、さして目立たず、手早く食べられるところをということで、手近な個室居酒屋──というのも、これはこれでとても新鮮だった──で鯖の塩焼き定食をいただいた。

添えられた小鉢がもずくだったことに、圭吾さん共々、笑いが溢れてしまい、先のインタビューの一幕などもあって、緊張感はかなり薄れていたと思う。]
　

　あ……、姉さん。

[約束の時間数分前に実家に着くようタクシーで向かえば、門前に姉さんが立っていた。

今日は着物姿の姉は、薄藤色の絽の着物に銀の帯を締め、常にはアイロンだ何だで華やかにしている髪もきりりとまとめられていた。
紫苑花の意匠があしらわれた帯留めと半襟は、姉さんの"勝負服"だ。



"よそ行き"の挨拶をした姉は、いい？と僕らに告げてきた。



真面目な顔でそこまで告げた後、姉はくるりと門扉へと着物の袖を翻した。



その言葉は大変に頼もしかったけれど。
和装の淑女らしからぬ仁王立ちは止めた方が良いと思うよ、姉さん。]*