260 【身内】Secret
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[ 真意が読めなくて、わたしは目を細めて動きを止めた。
滲んだ視界を晴らすように眦を拭ってから、
途切れ途切れに紡がれる言葉へ耳を傾ける。 ]
嘘つき。
そうやって、またわたしから逃げるくせに。
ストーカーにそんなこと言ってまで逃げたいの?
──殺さないって最初から言ってるじゃない。
ああもう、どいつもこいつも、そうやって……!!
[ 唇を噛み締めて、自分の腕に爪を立てた。
傷付いてくれと願った以上大差はないだろうけれど、
物理的に傷を負わせたいなんて思ってはいない。
行き場のない激情を彷徨わせながら、
わたしはもう一度、彼の顔を じ、と見下ろして。 ]
………………………。
…………逃げたら死んでやるから。
[ 目論見通りにはいかないと続けることは出来ただろう。
けれど同時に、彼の幻影を、貴方へ見ていた。
撫でられたかったわけじゃない。
そんな夢はもう小人たちの家に置いてきた。
ただ、もしかすれば、と微かな蜘蛛の糸を手繰ったの。
わたしから逃げないお兄さん。
わたしを、忘れないでいてくれる、お兄さん。 ]
[ 熱を引き抜き、けれど警戒するように跨ったままで
わたしは動向を見守った。
撫でられたかったわけじゃない。
だって、この恋が実らないのと同じで
撫でて貰えるわけがないって理解してるから。
撫でて欲しいなんて望めない。
それだけのことをしてるって、分かってるから。
* ]
[人は忘却の生き物だ。
覚えようとして取り組んだことさえ、1時間後に50%、
24時間後に70%、1か月後には殆どを忘れるという。
自分が忘れていることを詳細に覚えている彼女は、
毎日自分といた日々を思い出して記憶を定着させたのだろうか。
つきあっていた相手だって、毎日自分のことを想ってくれていた
とは限らないのに。
10数年会わない間毎日。
それはどれだけの労力だっただろう。
忘れてしまうことへの恐怖もあったかもしれない。
覚えていなくても咎める人なんていないのに、
「忘れたくない」と思ってくれていたのか。]
[片や、そんな労力も払わず思い出そうとしなかった
自分にも残っている記憶がある。
強く意識しなくても残っていたということは、
それだけ自分にとっても既に深い部分に
根付いていたということだ。
これから彼女が補完してくれれば、
もっと取り戻せる思い出もあるかもしれない。
]
[名前を呼ぶことがどうして逃げることに繋がるのか。
眉毛だけが疑問を浮かべるように動く。
騙して逃げようなんて計算が出来る男ではない。]
………………。
[痛いことに変わりはなくても、
同じ傷にはならないだろう。
だって、相手に離れられたという痛みと、
相手に恋心をぶつけられた痛みは
根本的に違うから。]
[声が震えている。
瞼はまだ重く開きにくいが、手を持ち上げられるということは
やはり薬の効果が切れ始めているのだろう。]
ぅそ、ついて、なぃ。
[本当にならなかったことがあったとしても、
その時の気持ちは絶対に嘘の心算ではなかった。]
……にげるつもり、なら。
もっと動けるよぅになるまで、待ってる。
[こんな少しだけしか動かない状態で
それをルミに明かすメリットなんてない。
動きを見せたのは、言葉と行動通り、撫でようとしただけだ。]
[ルミはどんな表情なのだろう。
目を閉じていると何も見えない。]
……ここまで生きてきたのに。
昔のぉれのことに執着して、
ぃまからのぉれはぁきらめられンだ?
[殺さない、とルミは言った。
その言葉はきっと嘘ではないだろうと今は疑っていない。
逃げたら死んでやる、とは。
罪悪感に苛まれろということか。
自分を加害した相手の自殺で此方の心が痛むと思っているのか。
忘れていたことを詰る癖、自分の中にルミを慈しむ気持ちが
残っていることを期待していないと出ない言葉だと思った。]
……まだないてる?
[摩擦がなくなり、水音を立てて外気に晒された性器が
萎れて落ちる。
二択で選んだのは、自分の望みと合致していると思っているから、
撫でる先を探してもう一度、先程よりもスムーズに
腕を持ち上げた。*]
[ あの時間を忘れて、過去の貴方を記憶に埋めて。
きっとそうするのが一番良い道だったかもしれない。
わたしは貴方を傷付けないし、
貴方も忘れた過去を思い出すこともない。
諦めるのは生きていくだけならとても楽で、
けれど選べたのは無様でも縋りつくいばらの道。
思い出すたびに惨めで痛くて腕を切った。
血を流すたびに生きている実感があって
でも、そこにはいつも、貴方はいない。
]
[ 彼の声は震えながらも、言葉の輪郭を形作る。
持ち上げられた手を見やり、動向を注視しながら
うそではないと紡ぐ声へ目を細めた。 ]
そう思わせて逃げる算段かもしれないじゃない。
[ 理性では彼の言うことが正しいと分かっている。
感情が、一度消えた相手のことを信用できないだけだ。
ちがう。
信用できないという言葉すらも正しくはない。
これ以上、期待して傷付きたくないと
自己防衛に徹しているだけ。 ]
……諦めさせたのはお兄さんなのに、
なんでそんなこと言うの?
わたしから離れて、勝手に消えて、逃げて
新しく女まで作って幸せそうで──
忘れてしまえるような昔の子どもひとりが、
…………ッお兄さんには他にたくさんの人がいても
わたしには、わたしにはずっと、
昔のお兄さんしかいないのに!!
[ どうして勝手に大人になったの。
どうしてわたしの知らない顔を他の女に見せてるの。
今からの貴方を諦めなかったとして、
貴方はわたしのモノになってくれるの? ]
[ 叶わない夢なら最初から星屑になって落ちてしまえ。
咲かない花なら最初から枯れて朽ちて消えてしまえ。
わたしのものにならないお兄さんなら、
いっそ過去に執着していた方が楽だった。
────なのに結局今の貴方の傷を欲しがっている。
相反した感情と憎悪と愛情。
矛盾を抱えていることくらい分かっていて、
途方もない夢だけは見ないように自制して。 ]
…………おかげさまで。
[ ここで可愛く愛想を撒けるような女の子だったら、
ここで、強がって突き放せるくらい強ければ。
なにかを探すように持ち上げられる腕を見やり、
そ、とすこしだけ頭を下げる。
────撫でられたいなんて、思う資格はないけれど
ふれられたいと、願ってしまって。* ]
[忘れることも覚えていることも
男には傷とならなかった。
より多くの人と過ごして経験してきたことを背負うには
一つ一つの思い出のウェイトを軽くしないと
動けなくなることを、人間の脳は知っていて、
それに強い意思を介入させた者だけが
その最適化をカスタマイズすることができる。
物理的に流れた時間は同じ。
ルミが自分との思い出のウェイトを変えまいと
懸命に抗った結果負った痛みは、
「今」手当てすることはできない。]
[だが、「今」痛んでいる彼女には間に合うと、
それを願ってしまった。
その想いが防衛本能から来るものと解釈することは
出来るだろう。
ストックホルム症候群と名付けたければそれで良い。
それで躊躇するくらいなら、動かしにくい腕に
無理に力を入れていない。]
俺だけを、想って、ここまでひとりで
頑張ったって・・…聞いて、
俺は、ふつうに感動した、けど。
[悪意なく取った行動を詰られることよりも、
「ずっと昔のお兄さんしかいないのに」という言葉の方が
胸を抉った。
会えない相手なんて忘れた方が楽な筈だ。
頑張る必要なんてどこにもない。
だが自分にだけ執着したルミは
生きることを放棄せず
自分への恋を何度も反芻して定着させた。
取った手段は犯罪だが、それに至る感情そのものには
感動としか言い表せない気持ちを産んだ。]
[ケホ、と咳をする。
無理矢理口を動かしたからか喉奥がヒリヒリする。]
……間に合わなかったか。
まーいいや。
[泣き止んだと聞いた。
本当かは知らないが、本当でも嘘でもやることは変わらない。
触った感触があった。
体温までは移らないほどの微か。
そこが頭でなかったとしても良い。
幾筋もの線が描かれた手首でも。]
いーたいの、いーたいの、
…っ、おーれが、たーべた、
[ぎゅ、と拳を握り、自分の口元へ。
上手く操作出来ずに自分で頬を殴ってしまったが、
口は飲み込む動きが出来た。]
10何年分だって食ってやる。
[流石に思い出した今は、消化活動については
口にしなかったが、
思い出し笑いで少し噎せたように笑った。
瞼の痺れが取れた。
最初に見る相手の表情は、どんな色をしていただろう。**]
[ 女は彼と違って、経験してきた物事が少ない。
生きてきた世界とてそもそも狭いような生き物だ。
多くの人々と経験を知るよりも、
閉じ切った閉鎖的な世界で身を守ることを好んだ。
思い出のウェイトは過去に寄り過ぎた。
痛みも重みも麻痺するほどに時を重ねて、
昔を反芻し、飲み込み、追体験でこころを誤魔化す。
過去を今に当てはめて息をしているだけ。
そうするのが楽で、なにも傷付かずにいられるから。 ]
…………なにそれ。
今更そんな、 体のいい言葉で騙されたりなんか……
[ ────死んでしまうのが一番楽だと考えたこともある。
こころを殺して生きていくより、
身体ごと死んでしまえばいいのかと。
けれど。
どうして苦しいばかりの世界で生きて来たのか。
死ぬことを別に恐ろしいとは思わなかったのに
──……それならば、なぜ。 ]
……
[ 愛されようと色んな人に愛想を振り撒いて、愛を買った。
金を渡して夢を買った。
いくら繰り返しても満たされないまま大人になって、 ]
[ 目的もなく生きていくのなら、それでも良かっただろう。
けれど傷を付けながら、
生きるために彼のアカウントを探って彼を見続けた。
それは間違っても感動する類の話ではない。
犯罪として背筋を凍らせることはあったとしても、だ。 ]
……べつに、最初から泣いてない。
[ 嘘だ。今更繕っても意味のないこと。
涙で罪を誤魔化すみたいで、それは──
そんなことはしたくないだけ。
ちっぽけなプライドだ。
わたしが泣いて許されるのは簡単だけれど
それを見せられる彼の気持ちはどこにいく? ]
[ 彼の手が僅かだけ、体温も移らないほどかすかに触れる。
頭を少し下げただけでは届かなかったのか、
力の抜けた腕は、頭の代わりに醜いわたしの手首を撫ぜる。
長袖を着て見えないように誤魔化した過去の傷痕。
現在を生きるために過去で裂いた血肉の痕。
────ひきつれた皮膚越しに感じた彼の指は
おんぶして背負ってくれた時とは程遠い。
弱々しさだけが胸を打つ。 ]
────────……ッ
[ なにをするのかと見ていれば、貴方は。
あの甘えとはまた違う懐古を連れてくる。 ]
[ 噎せたように笑う姿が理解出来なくて、身体を引いた。
どうしてこの状況で今彼は笑えるのか。
なにも覚えていないくせに、
どうして二人のおまじないだけ鮮明に見せてくるのか。
ここで都合よく受け止めて幸せになれるような、
お気楽で軽くいられる性格はしていない。 ]
……なに、お兄さん、意味わかんないよ
今痛いのは、そっちの方でしょ……?
上手く腕も動かせないのに、
[ 自分の頬を殴ってしまっていたのを思い出して
恐る恐る、頬の怪我を確かめようと指を伸ばす。
触れられるのは、彼にとっては怖いことだろうか。
躊躇うように指先が空を彷徨って、 ]
[ 迷子のような、悪さをした子どものような。
顔立ちばかりが大人に近付いた女のかんばせは、
どんな言葉も似合わないマーブルカラーだ。
背後から急激に匂い立つ過去に戸惑って、
責め立てるのではない彼の反応に怯えている。 ]
………………せっかく今日の為に
お金も貯めて、お兄さんのことたくさん調べて
チャンスをモノにしようと思ったのにな。
いいよ。もう。
────なんにもしないし、抵抗しない。
警察でも何でも、連絡して良いよ。
[ やめてよ。
今更どうしてこっちを見ようとしてるの。
頭のおかしい犯罪者で、ストーカーなんだから、
昔と同じ仕草で、言葉で、やさしくしないで。 ]
……わたしの十数年なんか
嘘でも食べちゃだめでしょ、お兄さん
痛くなっちゃうよ……ほんとにさ。
[ 呟き落とすように咎めて、目を伏せる。
相変わらず跨ったままの体勢だと
彼の顔が嫌でも良く見えた。 ]
………… ほっぺた、怪我は?
[ 自分が気にしていいことではないかもしれない。
けれど、自分の仕込んだ薬の影響ともなれば
資格がないなんて理由で放置もしたくはなくて。
両腕を下ろしたまま、小さく尋ねる。
敵意がないと示す唯一の手段だった。** ]
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