【回想】
兄と目があった。
同じ血が流れているはずで、顔つきもそこまで違っていない筈なのに、感情豊かに顔が変化する彼をどこか羨ましいと思っていた。泣くことは許されていなかったし、責務を果たそうと努力するうちにどうやって笑えばいいのかも忘れてしまっていたから。
兄は俺と目が合っただけで泣くように笑い、笑うように泣いて、時折火がついたように喚き散らして怒っていた。器用な人だと場違いな感想が浮かんだ。
俺は無実だ。この女とは別れた筈。それでも迫ってきたのはあちらのほうだ。
そもそもお前は何故ここに来た。俺を馬鹿にしにきたのか。良いよな、お前は何でも手に入って。
"完璧なお前に俺の苦労が分かるか"。
そんな事を言っていた気がする。もう正確に内容を覚えていない。
人は他人の存在を「声」から忘れていくのだという。実際、内容も声も忘れてしまった。ここにいると決めた時から、たいていの物は不要だと脳が認識してしまっていたからだろうか。
あれだけ過ごした屋敷の細部が、ところどころ陽炎のようにぼやけてしまっている。
閑話休題。
捲し立てる兄へ一歩踏み出した。大量に血を飲み込んだ畳の感触がやけに気持ち悪かったような気がする。
あれだけ言葉を吐き出し続けていた兄は「ひ」と短く悲鳴を上げて黙り込んだ。そちらのほうが都合が良い。
全てを投げる選択をするというのに、頭も心も冷め切っていた。
ああ、むしろ、熱を帯びていた時間など、"俺"には一体どれだけあったというのだろう。
「兄様。俺に協力してくれますか?」
ただそれだけを告げた。
今まで積み上げてきたものを捨てるにしては実にあっけない別れの言葉だった。
結局、俺にとって"俺"という時間の価値なんてそんなものだったのだろう。