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![]() | 【人】 空虚 タチバナ[一度真実を話してからは、堰を切ったように罵倒に父の話が混じった。 私の父がどんなに最低な人間だったか。 私が父にどんなに似ているか。 そんな私を育ててやってるのに、私がどんなにひどい子なのか。 十にも満たない私は泣きながら反論し、 その度に母が激高し、私を叩く。 二人きりの家には、私たちしかいなかった。 冷静になれと諭してくれる人も、頑張ったねと褒めてくれる人も、 間に入って止めてくれる人も、誰も。] (192) 2022/08/11(Thu) 1:52:18 |
![]() | 【人】 空虚 タチバナ[背中を平手で叩かれるのが焼けるように痛くとも、 できるのは大きなミミズ腫れくらいだったし、 母の罵倒の後には必ず私の反論があった。 家の外に漏れるのは、親子の激しい喧嘩の形跡ばかり。 世の中にはもっと辛い思いをする人がいることを知っている。] (193) 2022/08/11(Thu) 1:52:28 |
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![]() | 【人】 空虚 タチバナ[仕事で疲れた母の代わりに食器を洗うようになった。 洗い残しがあると、ため息をつきながらすべて水に戻された。 洗濯物を畳むようになった。 畳み方が違うと、箪笥から出してぐちゃぐちゃに戻された。 布団を敷くようになった。 左の角を上にしなきゃいけないのにと、わざわざ敷き直された。 料理をしようとすると、 包丁を使うと危なくて見ていないといけないから、 邪魔しないでと言われた。] (195) 2022/08/11(Thu) 1:53:17 |
![]() | 【人】 空虚 タチバナ[母は完璧主義で、きっと、ある意味潔癖だったのだろう。 テストでどんなにいい点を取っても当然だったし、 通知表で前学期よりも成績が落ちた部分があれば、 その日の𠮟責は前日よりも酷いものになった。 毎日の喧嘩は次第に日常に染み込んでいき、 ランドセルを手放す頃には母に話しかけることが叱責の合図になっていた。 もう、会話もしたくなかった。 それでも私はまだ子どもで、母の助けがなければ生きられなかった。 だから友だちと遊ぶときには一週間前にお願いをしたし、 買い物をする時は事前に申請して、レシートを提出しなければならなかった。 それらすべてに母への声掛けが必要だから、 その度に、頬を母に差し出さなければなかった。] (196) 2022/08/11(Thu) 1:53:50 |
![]() | 【人】 空虚 タチバナ[ずっと、頭を絞めつけられるような心地だった。 それでも働いて、お金を稼いで、学校に行かせてくれる母の元、 私はたった一度も飢えるような思いをしたことがなかった。 間違いなく、私は母に助けてもらっていた≠フだ。 だから仕方のないことだったのだ。 私が母の叱責≠受けるのは、 母が大変な思いをしているのに、私が至らないせいなのだから。] (197) 2022/08/11(Thu) 1:54:09 |
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![]() | 【人】 空虚 タチバナ[家の中で二人きりになることがなくなったからか、 あるいは好きな人と結婚したからか、 母はこれまでよりずっと幸せそうに見えた。 父との結婚が周りに言われて嫌々したものであったことは、 これまでの叱責≠聞けば明らかなことだったから。 父の写真すらないのだから、疑う余地もない。 それに悲しみを覚えるような情もなく、 ようやく逃れようのない地獄から脱したと安心していた。] (199) 2022/08/11(Thu) 1:54:49 |
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![]() | 【人】 空虚 タチバナ[母の中で、今の幸せと私は結び付かないようだった。 義父と妹がいない時、私を探しては叱責≠オた。 妹がどんなに素直でいい子か、 私がどんなに愚かで悪い子か。 比較対象ができて罵倒の幅も広がった。 実際妹は素直ないい子で、成績こそ私が勝っていたが、 社交性も運動神経も何もかもが彼女の味方をした。 けれど、私はもう子どもみたいに反論することはなかった。 ぐっと歯を食いしばって、嵐が過ぎるのを待つように押し黙る。 母はそれすら気に食わないとでも言うように、 義父と妹に気づかれないよう、いつも私を睨んでいた。] (201) 2022/08/11(Thu) 1:55:18 |
![]() | 【人】 空虚 タチバナ[母は賢くて優秀な人だ。 まだ女性が働くことが当たり前じゃない時代から独り立ちして、 子ども一人を抱えて生き抜いた。 だから、仕方のないことだ。 母だって我慢してきたのだ。 だから、妹のお手伝いを母が褒めちぎっても、 昔の叱責≠怖れて手伝わない私を嘆いても、 事情を知らない義父が母ではなく私を優しく窘めても。 仕方ない。仕方ないの。] (202) 2022/08/11(Thu) 1:55:29 |
![]() | 【人】 空虚 タチバナ[大学生になる頃には私の居場所はなくなっていた。 それでも大学に通わせてくれたのは、体面を考えてのことだろう。 バイトをして家を出るという提案は通らなかった。 あと4年。私は指折り数えて日々を過ごした。 家を出れば、あと少し我慢すれば、私は大人になれる。 何になりたいとか、何になれるとか、何も頭になかった。 だって私は出来損ないで、何もかもが最低だけど、 それでも大人になれば、少なくとも家族から離れられるって。 毎日浴びせられて染み込んだ叱責≠ェ私の常識になっていた。 仕方ないと言い聞かせるのも限界だった。] (203) 2022/08/11(Thu) 1:55:43 |
![]() | 【人】 空虚 タチバナ[――そう。限界、だったんだと思う。 単位のためにとった心理学の授業、 教授が話した学習性無気力≠フ話。 普通なら、普段なら、何てことない内容だった。 これまでのことに比べたら、本当に些細な出来事。 けれど、たった一欠片の納得が私の心に落ちて。 表面張力で堪えていた何かが一気に溢れて、 溢れて、 あふれて、 ――そこからのことは、あまり覚えていない。] (204) 2022/08/11(Thu) 1:56:46 |
![]() | 【人】 空虚 タチバナ[すべてが膜の向こうで起きることのようだった。 私はどこかのベッドにぼんやりと横たわっていて、 母や義父、大きくなった妹の顔が見えて、 知らない人も、白い部屋も、全部が全部、 自分のことじゃないみたいだった。 だから私は何度呼びかけられても返事をせず、 耳に届く声を他人事みたいに聞いていた。] (205) 2022/08/11(Thu) 1:57:04 |
![]() | 【人】 空虚 タチバナ[ここが病院らしいこと、入院していること、 着替えや洗濯物を回収するため、週に一回家族が来ること。 私はどうしてここにいるんだろう。 どうして母が私のところに来るんだろう。 いいよ来なくて。嫌いでしょ、私のこと。 これまで通り家族の邪魔しないし、卒業したら出ていくからさ。 かかったお金は少しずつ返すし、帰ってきたりしないよ。 ねえ、だってそれが正しいことでしょう――?] (206) 2022/08/11(Thu) 1:57:18 |
![]() | 【人】 空虚 タチバナ[それからどれくらいの時が経っただろう。 久しぶりに見た妹が、 「どうして私たちはこんなに不幸なの?」と泣いていた。] (207) 2022/08/11(Thu) 1:57:42 |
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![]() | 【人】 空虚 タチバナ[死にたいと思ったことがあった。 生まれて来なきゃよかったと思うようになった。 そうじゃなくて、そんな甘いこと言ってないで、 死ななきゃいけなかったんだと、思った。] (209) 2022/08/11(Thu) 1:59:27 |
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![]() | 【人】 空虚 タチバナ[20年程前、噛志野医院で突如として起きた不審死の中に、 『橘 花連』という名前があった。 今よりも個人情報に厳しくなかった時代、 あるいは混乱の最中に残されたカルテの残骸があったなら、 その死因が心臓麻痺であることが記されているだろう。 それが真実かどうかは自分自身でも分からない。 気がついたら死んでいて、気がついたらここにいた。 病室の片隅でぼんやりと自身を見下ろす。 真っ白な手で胸元を撫でた。] (211) 2022/08/11(Thu) 2:00:33 |
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空虚 タチバナは、メモを貼った。 ![]() (a63) 2022/08/11(Thu) 2:06:36 |
![]() | 【人】 名坂愛子―― 食堂 [さて、彼女の案内に従ってたどり着いた先は、少々荒れているのも否めないけれど、机や椅子に壁などが白で統制された清潔感のある食堂。 電気もついているし、給水機ではちゃんと水が出るのも確認できた。 ただ、人らしき気配は何も感じなかったけれど。 もちろん、人以外の気配については知らない。 備え付けてあった紙コップに水を入れてその場で何度かがぶ飲みした後、ふらふらと空いている席に近づいて、そのまま机に突っ伏すようにして座る] ごめん、少しウトウトしてる…… 15分くらい経ったら起こしてー、なんて…… [突っ伏したままで彼女に言って、しばらくしたらスヤスヤとうたたねしている気配がするように。 見たところ自分と彼女以外に人が居ないように見えたし、いろいろとよくしてくれている彼女を信頼してるのもあって、疲れをとる手っ取り早い方法として睡眠を選んだのだ] ――むにゃ…… [かなり無防備に突っ伏しているため、多分、誰かに何かされたとしても、しばらくは起きない……かもしれない]** (213) 2022/08/11(Thu) 2:07:55 |
名坂愛子は、メモを貼った。 ![]() (a64) 2022/08/11(Thu) 2:12:36 |
![]() | 【人】 空虚 タチバナ[カナとはきっと同じ時期に入院していただろう。 生きている頃に顔を合わせたこともあるかもしれない。 しかし自身は何に対しても無気力で、 彼女はいつだって■■さん≠求めていた。 故に、私が彼女を認識したのは命が尽きてからだ。 動く心配のなかった自身とは違い、 彼女はただひとつのことに対してまっすぐだった。 だから初めてその姿を認識した時、 拘束された手足を見て驚いた表情を浮かべたと思う。 しかし彼女がそれを物ともせず歩き出した時、 自身の胸の穴と同じようなものかとも感じた。 死んでいるが故に、意味を成さないカタチ。] (218) 2022/08/11(Thu) 3:02:20 |
![]() | 【人】 空虚 タチバナ[生まれてくることのできなかった子どもたちの前では、 いつも以上に無口になる。 口を開いてしまえば、 「代わってあげたかった」なんて、 ふざけた言葉が溢れてしまいそうだからだ。 過ぎてしまったもしも程、愚かなものはない。 もし、生まれたのが私じゃなかったら。 あの子たちの誰かだったなら。 ……だったらなんだと言うのだろう。 生から解放されたというのに、 あの子たちを見るといつだって生を思い出してしまう。 だから、あの子たちが望むことを私は阻まない。 それは罪悪感などという愚かな感情ではなく、 ただ関わりを避けるためのエゴに過ぎない。] (221) 2022/08/11(Thu) 3:03:02 |
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