アラ、おつかれさん。
ちょうど今アンタ好みのが入ってったわよ。**

　
［────朝起きると身体のどこかしらが痛い……。］
　

　
［四十肩が五十肩に名を替えるまであと何十日か。
　カレンダーにカウントダウンでも書き込もうか。
　……そんなくだらないことを考える程度に
　余白だらけの人生だ。
　若さは蝋燭のように溶けていった。
　今時洗顔だけのスキンケアはありえないと
　自分の子でもおかしくない年齢の後輩に笑われ
　朝の洗面台ではカミソリにも負けている。］
　

　
［真っ黒、乃至濃い灰色の弊社では
　未だホワイトボードに個人の能力を晒す。
　勉強も運動も常にぱっとしなかった成績は
　大人になって尚変わらなかった。

　もし言い訳をするならば
　訳もわからぬご年配の方に
　ウォーターサーバーやカンタンスマホを
　二台も三台も売り付けるのは
　詐欺と言っても過言ではないと思うんだ。

　思うんだけど。

　だからと言って何かを良くしようとする訳でもない。

　駅前のちっさすぎる喫煙スペースからはみ出して
　電子タバコを咥える男女を一瞥だけする
　善人にも悪人にも振り切れない己は
　仕事終わりの一服を早々に諦めて
　ぎゅうぎゅう詰めの電車に揺られる。

　あの店はいまでも、喫煙が許されているから。］
　

　

　　　　はあ……


［思わず出た溜め息。
　自分への褒美という色が濃くなって
　義理チョコが撲滅傾向にあっても
　コンビニ、スーパー、電車内……、
　至る所でそのイベントは目に飛び込んでくる。


　


　バレンタインには青く苦い記憶しかない。

　独りでいると碌でもないことしか考えないから
　何日も前から店──バーには行くと決めていたし、
　いままさに向かいながら早く着けばいいと焦れている。

　出逢いか、刺激か、或いは癒しか、
　思い思いのものを求める者が集う場所。
　趣味嗜好を隠さなくても許される場所。

　知ったばかりの時分にはまるで猿のように
　足繁く通ったものだが、近年では数ヶ月に一度の頻度か。
　歳食って多少は落ち着きも覚えたというか……、
　枯れ始めてるって言った方が、正しいかも知れない。］
　

　
［──兎も角、独りで過ごしたくない日に
　独りで過ごさなくても済む場所に向かい
　慣れた足取りで辿り着けば

　入り口で常連と出会した。>>0］


　　　　俺の好み……マジかよ


［傾向が掴まれてることは遺憾であるが
　気づいたら似た者ばかり
　目が追ってしまうのだから……、仕方がない。

　俺は、昔から異性に興味がなく、男が好きで。
　］
　

　

　

　
［どうなったか後で教えなさいよと
　野太いエールと力強い手に押されて
　たたらを踏みながら店内に入る。
　あーもー肩痛いっちゅうの。

　一杯ずつ会計を済ませるシステムゆえ
　入っていったばかりということは
　オーダーの列にいただろうか。
　それらしき男にすかさず声をかける。］


　　　　なあ、アンタ良かったら
　　　　俺に一杯奢らせてくれないか？


［目、鼻、唇、手の大きさ……声。
　似ている人にフラれるのは慣れてきたから
　声をかけることくらいはお手のものだ。
　仕事の時ほど胡散臭くない笑みを見せることも造作ない。］
　

　

　　　　……っ


［だけど相手の顔を見てひととき固まってしまう。
　近くに来て見えた、照明に照らされる顔が
　あまりにも"本人"だったから。*］
　

[気が付けば歳ばかり食った気がする……]

[充実していたらしい学生時代も今は昔
養ったはずの体力は日々の営業周りで削り取られた
バブルとやらの頃は羽振りもよかったんだろうが、それが崩れちまえばただただ忙しいだけ
それでも、それまでの業績のおかげで何とか今日まで首は繋がってる
あとはそれを後進に受け継がせるだけなんだが……]

　お前、また先方を怒らせたのか……
　さっきすごい勢いで電話来たぞ？

[任された後輩はこれがまた曲者で、こっちが頭を下げることもしばしばで
どうしても外せない予定があるからと別の奴と向かわせた現場でやらかして
あわや取引停止か、なんてところまで行ったらしく
結果、俺が後日謝罪と打ち合わせに行く羽目になった
入社一年目で仕方ないかもしれないが、あいつは致命的に営業には向いてない
このままいけば4月には配置換えになりそうだ]

[不満げな後進の様子をチラ見して自分の仕事に戻る
そう言えばあいつはコネ入社だったなと思いだす
部長だか常務だかの身内で、なかなか就職ができないからという話で
確かに氷河期の今は就職も大変だろうが、決まらなかったのは間違いなく本人の資質だろう

サクッと今日の経費の領収書その他を纏めて総務へ持って行く
問題なしのお墨付きを貰えば、定時はもうすぐそこだ]

　すみません、明日朝一で先方に謝罪と改めて話を進めたいんで定時で上がらせてもらいます

[そう言って席を立てば、上司が二つ返事で了承してくれる
この件をうまく纏めたら査定上がるだろうか……などと考えていると舌打ちが聞こえた
出所ははっきりしていて、すぐに注意が入る
お前も一緒に、という上司の声を柔らかくきっぱりと遮って]

　いや、そいつが行くと余計拗れますよ

[これまでの経験がそう告げている
その様子を察してか、上司もそれ以上は言わず、後進はますます機嫌が悪くなるのだった]

[翌日、元の予定に無理やり謝罪を突っ込んだから予定はかつかつで
社に戻らず直帰すると連絡を入れれば「お疲れさん」と了承が返った
とはいえ、時間的にはまだ早い
世間的にはバレンタインらしいが、あいにく待つ人も今はいない
「貴方の気持ちがわからない」そう言って離れていったのは何人目だったか]

　……あの店、寄ってくか

[最近見つけた店だ
その店が「どういう場所」かも俺は知っている>>4
ゲイ、というわけではない……女とだってやる時はやる
ただ、どうにも長続きしなかった……本気で愛せなかったから

こんな時は、なぜか無性に「同性の熱」が欲しくなるから
]

[入り口付近で常連らしい男とすれ違う>>0
日付のせいかいつになく人が多い
これはオーダーを済ませるころには席が埋まってやしないかと店内を見回してから列に並ぶ
今日は何を飲もうか、などと考えていると
不意に、聞き覚えのある声が届いた>>7]

　えっ？

[振り返る
向こうが息を飲むのがわかる>>8
俺は、確認するように声をかけた]

　もしかして……田中、か？
　学生時代一緒だった……

[そこにいたのは、まさしくたった今、俺が思い出していたその人だった*]

　
［記憶通りの声が鼓膜を震わせ
　記憶より一層魅力を増した美丈夫が
　俺の視界を彩った。>>13

　懐かしさ、青臭さ、苦さ、罪の意識、
　色んな感情が溢れて
　再会の喜びと逃げ出したさが拮抗する。

　否、後者が優勢だ。
　学生時代は同性愛者であることを隠し通したのに
　先ほどの自分はナンパの常套句で
　彼に話しかけてしまったのだから。］


　　　　あ、　う、ん……
　　　　えっ　よくわかったね？
　　　　ヘイセくん……


［別人のフリをしようと思ったが……、
　実行するより先に名を呼ばれて、
　戸惑いつつ認めてしまった。］
　

　
［だってびっくりしたんだ。
　相手が神なら自分はミジンコくらいの存在。
　どこにでもいる地味で冴えない俺のことを
　覚えていてくれて剰え気づいてくれるだなんて
　思ってもいなかった。
　浮かれそうになる。

　ああでも流石ヘイセくんだ。
　イケメンなだけじゃなくて
　賢くてよく気が回る人だった。
　先生達にも一目を置かれていた記憶がある。
　取引相手の名前を覚えるのにも
　いちいち苦労している俺とは違う。］
　

　

　　　　で、どう？　一杯だけ……
　　　　ええと、久しぶりに会ったことだし


［下手くそかよ。
　改めてお誘いをかけてみるが
　もっと上手に誘えないものかと早速内心で後悔する。
　叶うことなら一杯どころか
　十杯でも二十杯でもご相伴に預かりたいくせに
　予防線を張って備えるあたり卑怯者だ。
　彼が嫌なら上手に断ってくれる筈だし
　一杯だけなら本当に付き合ってくれるかも……なんて
　打算はしっかり働かせてる。
　逃げ出したいのは本音だが
　再会したばかりの彼を離したくないのもまた本音だった。**］